東京高等裁判所 昭和33年(ネ)1802号 判決 1960年9月10日
控訴人 大木貞次
右訴訟代理人弁護士 伊藤清人
被控訴人 森口安次郎
右訴訟代理人弁護士 佐々木
主文
本件控訴を棄却する。
事実
≪省略≫
理由
一、左記の各事実は当事者間に争がない。
被控訴人が弁護士岡田実五郎を代理人として、控訴人及び国に対し、昭和二十四年一月二十五日東京地方裁判所に左記内容の損害賠償請求の訴を提起した。
請求の趣旨
「被告等(本件控訴人及び国)は連帯して原告(本件被控訴人)に対し金五十一万八千円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和二十四年二月五日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告等(本件控訴人及び国)の負担とする。」
との判決並びに仮執行の宣言を求める。
請求の原因
(一) 原告(本件被控訴人、以下同じ)は、被告大木貞次(本件控訴人、以下同じ)から昭和二十二年十月二十五日東京都葛飾区高砂町四百三十八番地所在の木造瓦葺二階建一棟建坪三十九坪五合外二階二十五坪外一棟を、旅館経営の目的で賃料一ヶ月金五千円、毎月末日払の約定で、賃借期間を別に定めないで賃借し、それ以来旅館業を経営してきた。
(二) ところが、被告大木と訴外広沢某とは結託して、東京拘置所に対し、右二棟の建物は他に賃貸しておらず、原告は本件建物の管理人に過ぎないから、いつでもその明渡が可能である旨申し向けて、係官である用度課長花田音助を籠絡して、金百五十万円で昭和二十三年三月三十日国にこれを売却し、同年四月二十八日その旨の所有権移転登記手続完了した。
(三) 係官花田音助は、被告大木等の前記言説を軽信して、本件建物に対する賃貸借関係を調査しないで、原告の現実の占有を無視して、同年五月五日本件建物に、訴外大島敏夫外十四名(いずれも看守)を不法に侵入させ、現在居住させている。
(四) 本件建物が旅館であることは、被告等の知るところであり、旅館の一室の一日の使用料は金百四十円であることを知るべき筋合であるので、国の使用人である前記訴外人等は合計十五室の客間を占有使用しているから、国は原告に対し一日金二千百六十円の損害を与えている(不当利得としてもその利得をしていることになる。)従つて、国は原告に対し、昭和二十三年五月六日から同年十二月三十一日までの損害金(不当利得金)五十一万八千円を支払う義務があり、また右損害は被告大木が本件建物を無理に東京拘置所に売りつけようとしてなした不法行為によるものであるから、共同不法行為を免れない。しかるに、被告等はその支払をしないから、本訴に及んだ次第である。
よつて、控訴人は、被控訴人が提起した右訴訟事件で、請求棄却の判決を求め、控訴人になんの不法行為もない旨を主張した結果、昭和二十六年十一月二十日左記内容の主文による判決があつた。
「被告は原告に対し金四万六千二百円及び昭和二十四年一月一日から昭和二十五年三月三十日まで毎日金二百円の割合による金員並びに右金四万六千二百円については昭和二十四年二月五日から、他の金二百円については各その翌日から年五分の割合による金員を加算して支払え。
訴訟費用は三分し、その二を原告、その一を被告の負担とする。この判決は原告において金四万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。」右判決に対しては、控訴人、被控訴人とも東京高等裁判所にそれぞれ控訴を提起し、同裁判所昭和二十六年(ネ)第二四一九号、第二四六七号事件として審理の結果、昭和三十一年八月三十日左記内容の主文による判決言渡がなされ、右判決は上告されずに確定した。
「第一審原告の控訴はこれを棄却する。第一審被告の控訴に基き、原判決を取り消す。第一審原告の本訴請求(当審における拡張部分を含め)を棄却する。訴訟の総費用は第一審原告の負担とする。」
(以下、右の訴訟を前訴という。)
二、控訴人は、「被控訴人は控訴人が売却した前記建物について、賃借権を有しないのに、右のような前訴を提起したのであるから、前訴は不当な訴訟である。」旨主張するので判断する。
いずれも成立について争のない甲第二号証、第四号証、原審証人井関喜美子の証言及び当審での被控訴人尋問の結果を綜合すれば被控訴人は旅館を経営する目的で、昭和二十二年十一月頃控訴人からその所有の前記二棟の建物を、賃料一ヶ月金五千円、毎月末日払の約定で、別に期間を定めないで賃借し、それ以来妾の井関喜美子をそこに住まわせて、高砂館という名で旅館の経営に従事させてきたことを認めることができる。原審及び当審での控訴本人の供述中、右認定に反する部分は、前掲各証拠に照して信用できない。他に右認定に反する証拠はない。してみると、前訴提起のときまでに、右認定の賃貸借契約が終了したことの主張も立証もない本件では、被控訴人は少なくとも、前訴提起当時においては、控訴人所有の前記二棟の建物について、賃借権を有していたものといわなければならないので、控訴人の右主張は理由がない。
三、次に、控訴人は、「仮に被控訴人が賃借権を有していたとしても建物の賃貸人がその所有権を他人に譲渡することは所有権の作用で、それ自体当然不法行為にも債務不履行にも当らないし、当事者間に賃貸物件を他に譲渡しない特約があるとか、譲渡の結果賃借権が失われる場合等に或は賃貸人の債務不履行となることがありうるにすぎない。本件建物について、控訴人が賃借権の負担のないものとして国にこれを譲渡したからといつて、被控訴人の賃借権になんら消長を及ぼすことなく、被控訴人は右賃借権を以て国に対抗できたわけである。ところが、被控訴人は右賃借権に基き国に対して建物明渡の拒否することなく、反つて、建物明渡を条件に金七十五万円を受け取りながら、控訴人に対して金百万円以上の損害金を請求し、前訴の提起したことは不当であつて、被控訴人の前訴に関する訴訟行為は控訴人に対する不法行為である。」旨主張するので判断する。前掲甲第二、第四号証及び成立について争のない甲第一号証と、原審及び当審での控訴本人、当審での被控訴本人の各尋問の結果によると、次の事実を認めることができる。控訴人は昭和二十三年三月前記二棟の建物を国(東京拘置所)に代金百五十万円で売却し、同年四月二十八日その所有権移転登記を経由したのであるが、右売却に当り、控訴人は国の経理担当係官に対し、被控訴人は控訴人のための留守番ないし管理人であつて、右建物について賃借権及び営業権を有するものでなく国が買収すれば直ちに右建物を使用するになんの差支もない旨を告げたので、国はこれを信用して、東京拘置所職員の宿舎に当てるため右建物を買取り、同年五月五日頃から中旬頃までの間に同拘置所看守等十数世帯の者を、右二棟の建物のうちの一棟(新館と称せられてきたもの)に入居させた。被控訴人は前訴の第一審では、控訴人と国との共同不法行為を請求原因として、昭和二十三年五月六日から同年十二月末日まで一日金二千百六十円(一室当り金百四十四円として十五室分)の割合による合計金五十一万八千円の室の使用料相当の損害を蒙つたことを主張し、右金員及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和二十四年二月五日から完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めたのであるが、右第一審係属中、被控訴人はその蒙つた損害は次のとおりであると請求の原因を訂正した上、請求を拡張し、金四十五万三百円及び昭和二十四年一月一日から昭和二十五年三月三十日まで毎月金二千円の割合による金員並びに右金四十五万三百円については上記昭和二十四年二月五日から、他の金員については請求を拡張した日の翌日から年五分の割合による金員を加算して支払を求めた。被控訴人の右請求の原因の訂正によると、「右建物のうち東京拘置所看守等の占拠した十五室はすべて四畳半で、被控訴人の蒙つた損害は旅館の公定宿泊料相当額であるところ、右宿泊料は昭和二十三年五月五日から同年十月三十一日までは一人一泊六十円であるが、右看守等は妻子とともに占拠しているから一室につき平均二人として百二十円、十五室で合計一日金千八百円、同年五月六日から同年十月三十一日まで百七十九日分は合計金三十二万二千二百円であり、同年十一月一日以降は物価庁告示の改正により一室一日の宿泊料は金百四十円(一室二人として)となつたので、同日以降同年十二月三十一日まで六十一日間で合計金十二万八千百円となるから総計金四十五万三百円となる。その後も、右同様の割合により一室金百四十円十五室で一日金二千円宛昭和二十五年三月三十日までの宿泊料相当額が、被控訴人の蒙つた損害である。」というのである。ところが被控訴人は前訴の第二審では、控訴人は被控訴人に対し賃貸人としての義務を尽さなかつたとして、第一次的に右債務不履行を原因として損害の賠償を求め、第一審で主張した不法行為を第二次的の請求原因とし且つ被控訴人の蒙つた損害については、「被控訴人経営の旅館高砂館はかなりその名を知られており、一棟(新館)は四畳半室十六室でそのうち一室は女中部屋に充て、十五室が客用に使用でき、又他の一棟(旧館)は客室に使用できるもの十一室を有し、全体で日収五千円に上つていたから、これらの点からみて、借家権を含む右営業権の価額は当時百二十万円を下らないところ、控訴人が右建物を国に売却した結果、看守達が新館を占有し、新館はもち論のこと旧館での旅館営業も継続できなくなつた。よつて営業権喪失による損害賠償として金百二十万円と、東京拘置所職員入居の日の翌日である昭和二十三年五月六日から昭和二十五年三月五日までの間、被控訴人の得べかりし営業上の利益喪失による損害額三百五十万円のうち金四十五万六千円をそれぞれ支払うことを求める。もし、右営業権の価額が金百二十万円に達しないと認められるときは、その差額だけ、営業上の収益喪失による損害金のうちの請求額を増加し、いずれにしても、第二審では請求の趣旨を拡張し、金百六十五万六千円及びこれに対する昭和二十五年三月六日から完済に至るまで年五分の割合の遅延損害金の支払を求める」旨を主張した。前訴の第一審判決では、被控訴人主張の賃借権の存在することを認めるとともに、不法行為の成立を肯定した上、その損害額については、被控訴人の請求の一部だけを認容し、その余の請求を棄却したのであるが、第二審判決では、被控訴人が前期建物について賃借権を有し、そこで旅館営業をしていたことを認め、且つ被控訴人主張の債務不履行の事実を認めながら、旅館業を妨げられたことにより被控訴人が蒙つた損害の点については立証がなく、また被控訴人の賃借権及びこれを基礎とする旅館営業権消滅と控訴人の債務不履行又は不法行為との間には因果関係がないとして、被控訴人の全面的敗訴に帰したものである。右認定を動かすことのできる証拠はない。
一方前掲甲第二号証及び第四号証と、原審及び当審での控訴本人(但し後記信用しない部分を除く)並びに当審での被控訴本人の各尋問の結果によると、控訴人が前記建物二棟を国(東京拘置所)に売却した当時、被控訴人は上記認定のとおり右建物を控訴人から賃借し旅館営業をしていたのに、控訴人は右売却に当り国(東京拘置所)の経理担当係官に対して、被控訴人は控訴人のための留守番もしくは管理人であつて、右建物の賃借権や営業権を有するものでなく、国が買収すれば直ちに建物を使用するに妨げないことを申し向けたので、国はこれを信用し東京拘置所職員の宿舎に充てる目的でこれを買収し、昭和二十三年五月五日頃から同月中旬頃までの間に同拘置所看守等十五世帯の者を右建物のうちの一棟(新館)に入居させた結果、被控訴人は右新館を旅館営業に使用することができなくなつたことを認めることができる。原審及び当審での控訴本人の各供述中右認定に副わない部分は前掲各証拠に照して信用できないし、他に右認定を動かすことのできる証拠はない。
がんらい、建物の賃貸人がその所有する建物を第三者に売却処分すること自体は、賃借人との間に譲渡禁止の特約がある等かくべつの事情のない限り、所有権本来の効力として適法な行為であつて賃借人に対する債務不履行又は不法行為となるものではないけれども、建物売却の結果賃借人は賃借権そのものを買主に対抗することができるとしても、賃貸人において右建物に何等賃借権の負担がなく、買主が即時これを使用できるものとして売却した結果、これを信じて買い受けた新所有者と賃借人との間に紛争を生じ、賃借人が事実上賃借物の使用収益を妨げられたような場合には、賃貸人は賃借人のために目的物を使用収益に適する状態を継続させる義務に違反したものであるから、賃貸借契約上の債務不履行の責を免れない。本件では、被控訴人のなした建物売却の結果被控訴人の自己の営業を妨げられたことは、上記認定のとおりであるから、被控訴人が控訴人に対して営業上得べかりし利益を失つたとして損害賠償請求訴訟を提起したことは、一応もつともなことである。そればかりでなく、前訴の提起並びにその後の訴訟行為について、被控訴人は法律の専門家である弁護士岡田実五郎に訴訟代理を委任していることと、上段認定のように、前訴の第一審では、被控訴人は一部とはいえ勝訴の判決を受けたのであり、また第二審判決では被控訴人主張の債務不履行及び旅館営業の事実は認められたが、旅館営業を妨げられたことにより、被控訴人が蒙つた損害の点については立証がなく、また被控訴人の賃借権及びこれを基礎とする旅館営業権消滅と控訴人の行為との間には因果関係がないとの理由で、被控訴人の敗訴となつたものであることを合せ考えると、前訴は第二審判決により被控訴人の全部敗訴に帰し、被控訴人が主張したような損害賠償の請求権が実体上存在しないことに確定したとはいえ、被控訴人が実体上の権利がないことを知り又はこれを知らなかつたことについて、従つて、また前訴の提起及び第二審判決に至るまでの訴訟追行について過失があつたものとは認めることはできない。
その他、控訴人の提出援用した全証拠によつても、被控訴人が実体上の権利を有しないのに、控訴人から金銭を取ろうとする不法な目的で前訴を提起し追行したとの控訴人の主張を認めることはできない。
控訴人は、「被控訴人は上記建物の賃借権を以て買主である国に対抗することができたのに、その明渡を拒否することなく、反つて建物明渡を条件に、金七十五万円を国から受領しながら、控訴人に対して百万円以上の損害請求の訴を提起したことは不当事実を知りながらなしたものである」旨主張する。前訴提起当時の被控訴人の請求額が控訴人主張のような金額でなく、金五十一万八千円とこれに対する訴状送達の翌日以降完済に至るまでの年五分の割合の遅延損害金であつて、その後右請求を拡張し、第二審で再び請求を拡張し、金百六十五万六千円とこれに対する遅延損害金を請求したことは上記認定のとおりである。また、前掲甲第一、二号証、第四号証と原審証人岡田実五郎の証言、原審での控訴本人、当審での被控訴本人の各尋問の結果によると、被控訴人は買主である国に対し、前記建物の賃借権を主張して、あくまでその明渡を拒否することなく、前訴が第一審に係属中である昭和二十五年三月中、被控訴人と国との間の東京地方裁判所の調停事件で、調停による解決に応じ、国に対する関係で、前記建物についての賃借権その他一切の権利を放棄し、昭和二十五年四月二十五日限り右建物を明渡すこととし、また国から移転料名義で金七十五万円の支払を受けることを約し、右調停条項の履行として右家屋の明渡をするとともに、その頃二回に亘つて金七十五万円を国から受領し、前訴の第一審で、被控訴人と国との関係では右調停成立の結果、訴訟が終了したことを認めることができる。しかし、右調停は当事者でない控訴人に対しては、当然にその効力を及ぼすいわれはないし、右調停条項として、被控訴人から控訴人に対する損害賠償の請求に関しては本調停により何等の影響も及ばないと明示してその趣旨を明らかにしていることは、前掲甲第四号証、当審での被控訴本人尋問の結果により明らかであるから、右調停成立により被控訴人が国から金七十五万円を受領しながら、その後においても控訴人に対する前訴を追行したからといつて、その一事で、たやすく上記の認定を覆し被控訴人が実体上の権利を有しない不当な訴訟であることを知つていたとは認めがたいし、また、これを知らなかつたことについて、被控訴人に過失があつたと断定することも困難であるから、控訴人の右主張は採用できない。
四、以上説明したとおりで、被控訴人が控訴人に対し提起した前訴は、結果的には被控訴人の敗訴に終り、理由のない不当な訴訟であることが明確にされたものではあるが、このような理由のない訴訟を提起しこれを追行したことについて、被控訴人に故意又は過失の認められない以上、被控訴人に対し不法行為の責任あることを前提としてその損害の賠償を求める控訴人の本訴請求はその余の争点について判断するまでもなく失当であつて、これを棄却した原判決は相当で本件控訴は理由がないから、民事訴訟法第三八四条第一項を適用してこれを棄却することとし、控訴費用の負担について同法第九五条、第八九条を適用して主文の通り判決する。
(裁判長裁判官 村松俊夫 裁判官 伊藤顕信 杉山孝)